株式会社市場経済研究所

市場研コラム

 このコーナーでは、相場に関する話題を提供します。
 1週間に1、2回更新してゆく予定です。


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人物秘話、ときどき相場談義 33[鍋島高明](2016.02.29)

明治44年の米買い占め戦(3)
賀田金、根津理事長を味方につける 売り方の苦戦は必至

賀田金三郎

 コメ暴騰の仕掛け人「賀田金」こと賀田金三郎は世間の指弾に耐えかねて台湾へ脱出するハラのようである。
 「米相場買いあおりの張本人、賀田金は世の非難、攻撃に耐えられず、遠く台湾目指して逃げ延びるべく、9日下関に向け出発せりという。小気味よきことである。麻布行きの電車を天現寺車庫で降り、天現寺橋を渡り、約1町にして左側に堂々と石塀を巡らす一構えの屋敷こそ賀田金三郎の邸宅で…」(明治44年7月12日付東京日日新聞)
 石塀には落書きが一杯、「米価を安くしやがれ」「多くの人にコメをやれ、多くの人を悩ませるな」「賀田よ、死ね、おれが殺す、忘れるな」など恨みや脅しの落書きだらけ、取材記者が玄関のベルを押すと牛ほどもある洋犬が口綱をはずして吠え立てる。しばらくして60歳くらいの番頭と20歳くらいの書生が応対に出る。
 「主人金三郎は9日午後下関に出発した。何の用向きか、たぶん商業上のことだろうと思う。葉山に別荘があるが、忙しくて避暑どころではない。奥様ですか、先刻外出したままで戻りません」
 当時は取材記者(探訪記者と称した)が現場に出掛けて情報を集めてくると、これをもとに論説記者が記事に仕立てるという、2人1組で記事作成に当たっていた。だからそのころの記事には「という」という間接的表現が多かった。
 閑話休題。賀田金が台湾に向けて東京を脱出したとなると、新聞のホコ先は根津嘉一郎理事長に向けられる。7月13日国民新聞は「根津理事長が実質的な買い方の総大将」と題する長文の記事を掲載する。賀田の意向で渡し米の検査数量は1日当たり8,000俵に限り、これを取引所が認めたことが売り方には大問題である。米価下落を願う国民新聞はそこを突く。売り方は先物市場を避けて正米市場で売却することになる。先物市場での売り圧力は後退する。
 「先物市場の売り物を薄くし、買い方にその目的を遂げさせるは、当然のことと言うべし。ここまで便宜を与えられた賀田一派の買い占め団の得意や思うべく、それも知らずに売買せる善良な人々の不幸は察するに余りあり。検査人買収とともに企てたる賀田一派の奸策は仲買委員の買収、回米問屋の抱え込みなり。そして根津理事長はその尻押しをしたり。根津と賀田一派との黙契に、『先物は保証金を上げず』との一条あり」
 保証金(証拠金)を上げなければ市場は大いに売買が弾んでにぎわう。しかも買い占め団はできるだけ多くの踏みを取りたい。カラ売りを多くし、買い方のもうけを増やす道具立てはでき上がっている。理事長以下、取引所幹部を味方をつけた買い占め団には恐いものなし、かと思えば、そうでもない。買い玉が膨れると証拠金は累増する。
 「取引所より幾多の便宜、助力を受けた買い方も財力は心細きものにして…根津理事長はこの非力なる買い方に対して『万一現金に差しつかえを生ずるごとき場合、余は個人として調達に尽力する』との意をほのめかした。経済界の重鎮として資産700万〜800万円を積める根津理事長が後楯となり、買い方団の親金を引き受けるというは、賀田一派にとっては百万の味方なり」
 賀田金一派のペースで仕手戦は激しさを増していく。

【 鍋島 高明(なべしま たかはる)略歴 】

昭和11年高知県生まれ。34年早大政経卒、日本経済新聞社入社。
47年商品部次長、夕刊コラム「十字路」に執筆。
58年同編集委員、夕刊「鐘」、朝刊「中外時評」に6年間執筆。
日経電子版に『相場師列伝』連載中。
インターネット上の「鈴木商店記念館」監修。

日経産業消費研究所、日経総合販売を経て、
平成9年友人5人で(株)市場経済研究所を設立、現在代表取締役。

■著書
『日本相場師列伝』『日本相場師列伝U』『語り継がれる名相場師たち』(以上日経ビジネス人文庫)、「海坊主と恐れられた男 岩崎弥太郎」「大番頭金子直吉」(高知新聞社)
『ヘタな経済書より名作に学べ 金と相場』(河出書房新社)、
『鎧橋のほとりで』(米穀新聞社)、『北内正男と二家勝明−たどり着いて未だ山麓』