文学にみる「マネー&相場」−4− <鍋島> (2005.05.17)藤沢秀行著『碁打秀行 − 私の履歴書』 生糸相場に賭けた父重五郎 |
破天荒な生きざまと奇行が世間の耳目を集める天才棋士、藤沢秀行は二度に亘るガンを克服し、今も若い棋士たちの指導に当たる。先頃もNHKテレビが特集番組を放映していた。秀行さんの父、重五郎は横浜で相場師だった。 重五郎69歳、妻きぬ子23歳の時、秀行さんは生まれた。この壮大な年令差からも想像されることだが、相場師藤沢重五郎は秀行さんに輪をかけて豪快な人生を送った人物のようである。 ![]() 「父は古希を過ぎて、なお二子をもうけたくらいだから、若いころは推して知るべし。私たち四人のほかに、腹ちがいの兄や姉が一ダース以上もいる。いちおう総勢十九人ということになっているが、本当はもっといるかもしれない」重五郎は甲府で下駄屋を営んでいた時、幸運をつかんだ。台風に襲われ、甲州一帯に大被害を受けたことがあるが、重五郎は近在を駆け巡り、倒れた桐の木を買い占め、その後の値上がりで大儲けをした。その資金で製糸工場を始める一方で生糸相場を張った。 「儲けた金を四斗樽に詰めて運んだこともあると聞いているが、話半分にしても、かなり羽振りのいい時期があったようだ」重五郎は相場師タイプの事業家であった。その証拠に賭け事が大好きだった。「ハマの重五郎」といえば、その筋にも一目置かれる存在だったという。 「初顔の相手と勝負するときは諸肌(もろはだ)脱いで、『おれは一枚アバラだ』と気勢を上げたという」藤沢家には、重五郎が50歳ころの写真が1枚残っている。明治末期で、生糸相場が日本を代表する投機商品として人気を集めていた頃だが、重五郎は紋付羽織に威儀を正して、立派な口ヒゲもたくわえているが、いま一つ精気が感じられない写真である。 「なにかのおりに、父はけろりとしていった。『たしか、これは生糸相場で十万円がとこ、すったころだ』」当時の10万円は今の価値に直すと、億も億、10億円にも相当する巨額のはず。重五郎は生糸相場の暴れ方をよく知っていて、「板子一枚下は地獄」なら、今のうちに写真の一枚も残しておこうと思ったのではないだろうか。 幕末からこのかた生糸相場に賭けた相場師は夥(おびただ)しい数に上るが、重五郎もその1人だった。 (画像は藤沢秀行著『碁打秀行 − 私の履歴書』角川文庫) |
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