文学にみる「マネー&相場」−10− <鍋島> (2005.11.28)森田誠吾著『江戸の明け暮れ』 曲亭馬琴が気をもむ二分の金 |
江戸の戯作者、曲亭馬琴(1767〜1848)のある日の日記からストーリーは始まる。直木賞作家の森田誠吾さんが着目したのは文正11年(1828)11月6日の次の記述である。 「お路こと 金子(きんす)入用のむね 宗伯へ申すにつき 同人より金二分(にぶ) これを遣わす 右につき 予 子細 相糺(ただ)し候えども 分明(ぶんめよう)ならず」 ![]() 二分といえば一両の半分だから、大金とはいえないまでも端金ではない。当時の米価からすると、一両で五斗のコメが買える。二分なら二斗五升である。「思(おぼ)し召(め)しより米の飯」といわれた時代、その時代の人には一日に五合の飯を食べていた。二分という金は五十日の人のいのち。 当時馬琴はすでに『椿説 弓張月』『南総 里見八犬伝』の作者として江戸随一の文名をほしいままにしていたが、お金には厳しく細かかった。 「貧しくはないが、豊かともいいかねる滝沢家の家長として、稿料その他の収入はもとより、味噌、醤油の購入にいたるまで、家計のすべてに目を光らせているのだから、小出しのために渡してある息子の財布から、嫁の手に渡った二分という金の落ちつき先をたずねるのは当然であったろう」こうして森田さんの謎解きは始まる。それは馬琴日記を徹底的に読み解くことであった。馬琴の日記は異様なまでに克明である。たとえば、文政12年7月26日、普通の人ならば「陰蒸」(いんじょう・曇って蒸し暑い)の二文字で記すところを、馬琴は「晴 昼前より ばらばら雨 ほどなく止む その後 薄曇り 昼後 また雨 ほどなく止む その後 薄晴れ 夜九時(ここのつ・午前零時)ごろより 曇り」と記し、これでは原稿を執筆する時間もないではないか、とこちらが気をもむくらいである。 さて、お路の二分のカネの行方やいかに。目下、読み止(さ)しで、なんとも。 (画像は「江戸の明け暮れ」新潮社版) |
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