株式会社市場経済研究所

市場研コラム

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人物秘話、ときどき相場談義 14[鍋島高明](2015.03.06)

松辰、とうとう降参
「私欲より公益を」

松村 辰次郎

 今日破産するか、明日破産するか、の窮地に陥った松辰だが、明治37年2月5日は突如援軍が現れる。今まで総弱気だった市場で猛烈に買い進む者がいる。みるとそれは「龍五」印だった。
 「このありさまを見た松辰は時運転回の時は来たとばかり、後場さらに買い増したのである。果たせるかな、相場の転換はこの日到来した。続いて日露開戦となり、それより早くワリヤーク、コレーツの撃沈の報が来る。陸兵は鴨線江に迫るというわけで、来る号外も来る号外も景気のいい勝報ばかりだから相場は戦争の進捗するにつれて上がった」
 このため松辰の買い玉は生き返ったばかりでなく、どんどん利が乗ってくる。水びたし玉が一転、光り玉と変わったのである。松辰の名声は急上昇、松辰が買ったというと、それだけで新東(東京株式取引所新株)は1.2円上放れた。
 松辰というとすぐ大思惑師のように思われ勝ちだが、堅実なサヤ取りもやった。このことは余り知られてないが、松辰の生家が代々大阪の両替商であったことを思い起こせば、松辰にもサヤ取りの才覚があって当然だろう。
 「よく大阪の気配をみておいて東京とのサヤを取ったものである。そのため彼は自分で正株(現物)を持って汽車でよく大阪へ行った。こうして彼は思惑で当てるとともに確実なヤサ取りでも儲けたので、押しも押されもせぬ金持ちになった」
 ところが、第2次大隈重信内閣(大正3年)の時、米価が暴落、農村は疲弊し、大きな社会問題となる。政府は米の買い上げ等、さまざまな米価浮揚策を講ずるが、一向に効き目が現れない。その時、松辰は義憤を感じ、米の買い出動となる。松辰が侠気の相場師と呼ばれるのはそのためである。だが、結果は散々だった。
 「なんでもこの時は大隈伯や渋沢栄一男などの慫慂(しょうよう)もあったという話だが、彼は安値、安値と買い玉を拡げていったのだが、ついに1石(150キロ)12〜13円の安値にくるに及んで、彼は徹底的に参ってしまった。それからの松辰は全く不遇そのもののようになったのである」
 松辰は遺稿「相場の道」で「私欲より公益を」とし、こう述べている。
 「商いを行う初めから中途はもとより全部手仕舞うに至るまで私欲を従とし、公益を主と致さねばなりませぬ」

(写真は松村 辰次郎)

【 鍋島 高明(なべしま たかはる)略歴 】

昭和11年高知県生まれ。34年早大政経卒、日本経済新聞社入社。
47年商品部次長、夕刊コラム「十字路」に執筆。
58年同編集委員、夕刊「鐘」、朝刊「中外時評」に6年間執筆。
日経電子版に『相場師列伝』連載中。
インターネット上の「鈴木商店記念館」監修。

日経産業消費研究所、日経総合販売を経て、
平成9年友人5人で(株)市場経済研究所を設立、現在代表取締役。

■著書
『日本相場師列伝』『日本相場師列伝U』『語り継がれる名相場師たち』(以上日経ビジネス人文庫)、「海坊主と恐れられた男 岩崎弥太郎」「大番頭金子直吉」(高知新聞社)
『ヘタな経済書より名作に学べ 金と相場』(河出書房新社)、
『鎧橋のほとりで』(米穀新聞社)、『北内正男と二家勝明−たどり着いて未だ山麓』