株式会社市場経済研究所

市場研コラム

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人物秘話、ときどき相場談義 20[鍋島高明](2015.11.10)

断片的相場師列伝
相仙、籾山吉次郎、北平、越井

金の天秤

 野城久吉著「投機新論」は筆者の座右の書である。明治34年(1901年)に出版された本で当時名のある相場師が勢揃いする。中村道太、石崎政蔵、松沢与七、亀田介次郎、磯貝和助、浜野茂、島田慶助、阿部彦太郎、北野平兵衛、石田卯兵衛、諸戸清文、上清(中村清蔵)らはじっくり書き込んでくれてあり、「相場師発掘屋」を自称する筆者には欠かせない一冊である。上記の相場師についてはすでに印刷媒体か電子媒体で発表済みである。拙著と拙稿のどこかに彼等は登場する。以下の相場師は未登場である。
  野城記者が断片的にしか描いていないため、当方でも1本の原稿としてモノにするとことのできない相場師が何人かいるのだ。それをここに紹介する。
▲相仙こと鈴木仙蔵
 静岡県伊豆の出身、蛎殻町では一方の大手といわれた。相場の駆け引きは、これというほどのことはなかったが、天候を読むのが優れていた。米相場の根本は天候であるから、これの予測に長じていた相仙は合百師からも珍重されていた。
  「中以上の相場師となったほどだから、精神はいかにも潔白で、時としては場面(ばづら)に出て腹から2.3000枚の商いをした、至って面白い気象の相場師であった」
▲籾山吉次郎
 元は船乗りであった。籾山の他にも磯貝和助ら船乗りから相場師になった面々が多いのはなぜか。「昔、米穀の売買を、積み入れる船頭に委託したので船乗りとはいうものの、一面からみれば、厳然たる米穀商であったので、相場師に船乗りが多いかも知れない。特に船乗りは天候をよく見る。天候の変化を前知した者が相場において勝ちを制するからひと際船乗りに相場師が多かったのだ」。
  籾山は明治17.8年ころ名古屋で松沢与七の買いに向かって売ったことがある。当時、大隈重信放漫財政のあとを受けた松方正義蔵相によるデフレ、緊縮財政下で諸物価は低落傾向にあったから、籾山は利乗せ、利乗せで売りまくり10万円の大もうけとなる。名将松沢与七に勝利した勢いで東京に出てきた。「大いに仕事をしようとして出てきておって、2.3の仲買店から注文を出し、有力者の1人であった」。
 東株(東京株式取引所)の監査役を務めて籾山半三郎との関係ははっきりしない。
▼北平
  堂島の大手として有名な北平(北野平兵衛)とは別人である。この北平は京都を本拠にする相場師。夫人の家が金持ちだったもんで、その金を使って相場をやり、一時は30万〜40万円も儲けたこともあった。そのころ堂島や滋賀の大津市場でかなりの大玉を動かし、東京にも2.3の仲買店に注文を出し、商いをしておったが、一流の相場師にはなれなかった。相場師として最も忌むでき支払い勘定が至って悪かったということだ。明治24.5年ころが、この人の全盛期であった。
▼越井弥太郎。
 堂島の大立物。東京市場における松沢与七と好一対の勝負師。最近10年間に起こった買い占めに売り向かってことごとく勝利するが、みずから買い占めを企て、失敗する。
  「彼が相場師としていかに大胆で、見切りがよいか」と前置きして、越井が花札をやる時の態度を野城記者は重視する。間違いをやった時についグチをこぼしたくなるものだが、越井はまるであっけらかんである。野城はそんな越井を「相場師の中の相場師」と持ち上げる。

【 鍋島 高明(なべしま たかはる)略歴 】

昭和11年高知県生まれ。34年早大政経卒、日本経済新聞社入社。
47年商品部次長、夕刊コラム「十字路」に執筆。
58年同編集委員、夕刊「鐘」、朝刊「中外時評」に6年間執筆。
日経電子版に『相場師列伝』連載中。
インターネット上の「鈴木商店記念館」監修。

日経産業消費研究所、日経総合販売を経て、
平成9年友人5人で(株)市場経済研究所を設立、現在代表取締役。

■著書
『日本相場師列伝』『日本相場師列伝U』『語り継がれる名相場師たち』(以上日経ビジネス人文庫)、「海坊主と恐れられた男 岩崎弥太郎」「大番頭金子直吉」(高知新聞社)
『ヘタな経済書より名作に学べ 金と相場』(河出書房新社)、
『鎧橋のほとりで』(米穀新聞社)、『北内正男と二家勝明−たどり着いて未だ山麓』