株式会社市場経済研究所

市場研コラム

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人物秘話、ときどき相場談義 22[鍋島高明](2015.11.16)

断片的相場師列伝
兄の自殺防いだ嘉一郎の指の傷

電車

 根津嘉一郎が買い取った株の中では日本郵船が一番多かった。郵船株日清戦争では大きく高騰したが、戦後は一転反動安となり、無配に転落した。株主総会で大株主たる根津は経営陣にかみついた。内部調査をしたうえでないと、総会の議案を通すことはできないと主張した。しかし、株式の大多数は三菱が持っているため、根津の持ち株1万2,000株では太刀打ちできなかった。大株主とはいっても議決の実権を掌握していないことの無力さを痛感するのだった。
 明治33年、九州鉄道の改革運動が起こる。根津も改革派にくみした。改革といっても、新たに社長に就任する仙石貢に反対するというもの。改革派の株数は議決権を有するに至らなかったが、地方株主の大多数が改革派に同調する構えをみせたために、執行部もその動きを無視できなかった。結局、渋沢栄一、益田孝、雨宮敬次郎らが仲介に入り、井上馨に一任することで落着、仙石の社長就任は見送られた。
 ある時、根津は大阪キタの新地で福沢桃介と遊んでいた。そこにはのちに「電力の鬼」と称される松永安左衛門も一緒にいた。そのころ松永は福沢の子分格であった。福沢は松永に向かって「あれは甲州の根津だ。今根津君はピイピイでね」という。実際、根津は日清戦争後の株価暴落で苦境に陥っていた。一方の福沢は売りに回っていて大きな利益を上げていた。
 「ところがお茶屋に来ても福沢は君ほど金を使わない。君は苦境におりながら惜しまず金を出す。座敷も広い座敷におる。福沢いわく。『君、根津はなかなか偉い人間だよ。今は少し治ったようだが、根津の尿には血が混じって出ている』と。その時の君は毛髪を長くし、やせ衰えた一見貧弱な男であって、気の毒に考えたと、松永は語っている。そうこうしているうちに、君の所有株も霜害を経て春光に逢うた草木のように段々生気を吹き返して君の資産の基礎を強固にした」
 根津は主に株式投資で資産増殖を図ったが、兄は東京の土地に投資した。兄はやがて東京が繁栄するにつれて日本橋周辺の土地が値上がりするとみて土地を次々と買っていた。兄は以前、株で2万円損害を出し、親に申し分けがないと舌を噛み切って自殺を図ったことがある。この時は嘉一郎がとっさに親指を口の中に突っ込み自殺を防いだが、嘉一郎の指の傷は永く残った
 「君は兄に家督を譲ると同時に、兄との間で財産を分割した。その結果、山梨県下の君の所有土地を兄に譲り、東京府下における兄一秀所有の土地が君の財産に帰した」

【 鍋島 高明(なべしま たかはる)略歴 】

昭和11年高知県生まれ。34年早大政経卒、日本経済新聞社入社。
47年商品部次長、夕刊コラム「十字路」に執筆。
58年同編集委員、夕刊「鐘」、朝刊「中外時評」に6年間執筆。
日経電子版に『相場師列伝』連載中。
インターネット上の「鈴木商店記念館」監修。

日経産業消費研究所、日経総合販売を経て、
平成9年友人5人で(株)市場経済研究所を設立、現在代表取締役。

■著書
『日本相場師列伝』『日本相場師列伝U』『語り継がれる名相場師たち』(以上日経ビジネス人文庫)、「海坊主と恐れられた男 岩崎弥太郎」「大番頭金子直吉」(高知新聞社)
『ヘタな経済書より名作に学べ 金と相場』(河出書房新社)、
『鎧橋のほとりで』(米穀新聞社)、『北内正男と二家勝明−たどり着いて未だ山麓』