株式会社市場経済研究所

市場研コラム

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人物秘話、ときどき相場談義 23[鍋島高明](2015.11.20)

雨敬の教えに
事業家目指す根津

雨宮敬次郎

 株式投資で根津財閥の礎を築いた根津嘉一郎だが、金儲けの天才ぶりを発揮するには植林事業である。明治22年(1889年)、帰里の水口山に1万本の植林を行った時、根津はこう胸を張った。
 「植林は最も良い貯金の方法だ。成木するまでは売れないし、売る時は大金になる。銀行に預けるより貯金が有利だ。こうして微々たるものを植えておけば、これが成長して金になる」
 そして根津たちが有信貯蓄銀行を設立するのは明治26年のことで、根津は監査役に就いた。この銀行はのちに普通銀行の有信銀行となり、資本金も当初の3万円が100倍の300万円となり、甲府の第十銀行と合併して山梨中央銀行となる。根津が有信貯蓄作りの発端を述懐する。
 「私の村の主だった人が21人ほど集まってこしらえた会で有信会というのがある。会を起こしたのは明治15年のことで、年2回ほど集まって1回10円ずつ貯金をした。時にはその金で第十銀行の株を買ったりした。それが値上がりして有信会の財産は明治23.4年ころには1万6,000円から1万7,000円にまで増えていた」
 そして有信貯蓄銀行を創立する際、根津の「わずかなものといえども無駄にしない」性格が村人たちをうならせた。倉庫に山積みされている紙くずを売って、その代金を皆で分配し、これを貯金させたのである。
 根津は産を成すと、同郷の先輩雨宮敬次郎のもとに出入りし、親交を結んだ。そこには天下の糸平・田中平八、小野金六らも顔をみせていたが、ある時、雨敬は皆の前でこう語った。
  「事業は政治よりも生命がある。岩倉公のような大政治家も、政治における功績は時とともに消滅するが、彼が興した日本鉄道は、日本鉄道が在る限り人の視聴から消滅することはない。君らも相場などで一時の利をねらうようも事業を経営し、その利益を享受するようにせよ」
 雨敬のこの言葉に根津は感銘を覚え、事業経営に一層心血を注ぐこととなる。明治31年1月、徴兵保険会社の設立に参画、取締役となり、同時に東京米穀取引所の監査役となり、天草炭業相談役、獣脂肥料の監査役となる。また雨敬の勧めで、当時非常に株価が下がっていた房総鉄道株を買い同32年取締役となった。
 またみずから創設した帝国石油の社長に就任、東京電燈監査役に就いた。
 

(写真は雨宮敬次郎)

【 鍋島 高明(なべしま たかはる)略歴 】

昭和11年高知県生まれ。34年早大政経卒、日本経済新聞社入社。
47年商品部次長、夕刊コラム「十字路」に執筆。
58年同編集委員、夕刊「鐘」、朝刊「中外時評」に6年間執筆。
日経電子版に『相場師列伝』連載中。
インターネット上の「鈴木商店記念館」監修。

日経産業消費研究所、日経総合販売を経て、
平成9年友人5人で(株)市場経済研究所を設立、現在代表取締役。

■著書
『日本相場師列伝』『日本相場師列伝U』『語り継がれる名相場師たち』(以上日経ビジネス人文庫)、「海坊主と恐れられた男 岩崎弥太郎」「大番頭金子直吉」(高知新聞社)
『ヘタな経済書より名作に学べ 金と相場』(河出書房新社)、
『鎧橋のほとりで』(米穀新聞社)、『北内正男と二家勝明−たどり着いて未だ山麓』