株式会社市場経済研究所

市場研コラム

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人物秘話、ときどき相場談義 31[鍋島高明](2016.02.19)

明治44年の米買い占め戦(1)
暴騰に次ぐ暴騰、理事長の自粛要請よそに

資料作成:市場経済研究所

 明治44(1911)年7月、米相場が1石(150キロ)当たり20円寸前にまで暴騰する。史上初の20円相場が現実味を帯びてきた。後の史家は賀田金三郎一派の買い占めと称し、実質的には根津嘉一郎東米理事長が買い占め派の大将といわれるが、その一部始終を当時の新聞記事を手掛かりにみていこう。
 「買い占め団の大計画は着々として奏功しつつ、彼らは都下の米在庫の8.9分を買い占め、さらに定期(先物)に50万石の大買い占めを強行す。売り方が渡し米の収集に苦しみ、その売り玉を踏まんとするに当たり、相呼応して買いあおる相場は当然、騰貴せざるべからず。売り方は渡し米の用意を要するも、買い方は金で済むこととなり。彼らは仮りに成算なしとするも、売り物のあらん限りを買いさらいさえすれば、相場は当然騰貴するなり。ことに昨今のごとく売り方が意気消沈し、売り物多からざる時、売り方の踏みに乗じて極力買いあおる故、相場は当然狂騰せざるを得ず」(東京朝日新聞・明治44年7月8日付)
 明治年間の米価の推移をみると、蛎殻町米商会所時代(明治10〜15年)はざっくり言って1石当たり5〜10円。一時10円を突破したことはあるが、それはごく限定的だった。東京米商会所時代(同16〜25年)はデフレ経済下で5〜7円で低位安定していた。そして東京米穀取引所時代(同26年〜40年は7〜17円、大きく言って1石12円中心の時代といえる。そして東京米穀商品取引所時代(同41〜44年)は15円中心で安定していた。だが、明治が終わり、大正に入る辺りから荒れ模様となる。明治40年に松沢与一派による買い占めでつけたこれまでの最高値(19円50銭)を抜いて19円60銭をつけ、20円相場も指呼の間に望むに至る。前出の記事は続く。
「市場はいよいよ殺気を帯び、買い方は20円カイを振り、売り方は18円ヤリを振り、根津理事長は『絶対に静粛に売買ありたし、もし不穏の乱手を振る者あらば、市場の秩序を破壊するものとして、直ちに退場を命ずべし』と注意したるにより、灼熱せる市場は一杯の冷水を投ぜられるかのごとく、いささか落ち付いて…」
 この時は、根津嘉一郎理事長の厳命に敬意を表して、市場は鎮静化する。だが、2日後また鎌首をもたげる。当時、日本人はコメを1年間に1石食べるといわれていた。人口5,000万時代だから年間5,000万石を必要とした。ところが明治43年の収穫は4,600万石しかなかったので絶対量が足りないのは明白で、端境期に向けてコメ不足が深刻化するのは明々白々である。7月10日付国民新聞はこう報じた。
 「破天荒の新高値はさらに暴騰して、米価は今や、その極まるところを知らざらんとす。私利に汲々たる奸商の悪策はいよいよ出だて、いよいよ悪辣を極むるに至る。8日に至りて一層の狂乱状態を演出し、買い方団の激しい買いあおりによりて当限19円90銭、中物19円97銭という前代未聞の高値を聞くに至りたり」

(資料作成:市場経済研究所)

【 鍋島 高明(なべしま たかはる)略歴 】

昭和11年高知県生まれ。34年早大政経卒、日本経済新聞社入社。
47年商品部次長、夕刊コラム「十字路」に執筆。
58年同編集委員、夕刊「鐘」、朝刊「中外時評」に6年間執筆。
日経電子版に『相場師列伝』連載中。
インターネット上の「鈴木商店記念館」監修。

日経産業消費研究所、日経総合販売を経て、
平成9年友人5人で(株)市場経済研究所を設立、現在代表取締役。

■著書
『日本相場師列伝』『日本相場師列伝U』『語り継がれる名相場師たち』(以上日経ビジネス人文庫)、「海坊主と恐れられた男 岩崎弥太郎」「大番頭金子直吉」(高知新聞社)
『ヘタな経済書より名作に学べ 金と相場』(河出書房新社)、
『鎧橋のほとりで』(米穀新聞社)、『北内正男と二家勝明−たどり着いて未だ山麓』