株式会社市場経済研究所

市場研コラム

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人物秘話、ときどき相場談義 32[鍋島高明](2016.02.23)

明治44年の米買い占め戦(2)
買い占めの首魁は政商賀田金 大きかった米穀取引所の存在

米俵

 国内産米の絶対量不足がはっきりしてくるにつれ、当然輸入米も増えてくる。ところが東京の市民の口は贅沢で輸入米を食べようとはしない。余った輸入米は東京市場では在庫とはならず東北地方に運ばれることになる。
 一方、地方でも品不足を見込んで売り惜しみ、産地から入荷が減り深川の米穀問屋の在庫は減る一方である。こうなると相場師の活躍する時間帯となる。
 「強欲なる仲買人は早くもこの一般機運を悪用して、一挙に暴利を独占せんとし、さてこそ賀田金三郎、沢田米蔵らの独占買い占めとなり、直ちに深川の正米(現物米)買い占めに着手する。一方各地方の同類と気脈を通じて地方米の出荷を食い止め置き、極力買いあおりに取り掛かれば、売り方は引き渡しの時期が切迫する。」(国民新聞・明治44年7月10日付)
 こうなると完全な買い方ペースである。売り方は渡し米に窮し、踏み上げしか手はない。生殺与奪の権は数人の買い占め派に握られてしまった。
「横暴極まる買い方団の中、首魁と目指された賀田金三郎のごときは、みずから政商を標 榜し、権勢家の門に出入りして、これを笠に最も悪辣なる横暴をほしいままにせり。賀田がいうごとく、果たしてこれら権勢家が援助を与えられるや否や、は疑問なれども、表面上はしきりにこの機会に権勢家を利用せんと努め…」(同)
 賀田金三郎は後藤新平との交友が密なるものがあったといわれる。後藤の権勢を笠に着て、売り方をおどしながら、踏みを取る戦略である。不法行為なら賀田を市場から締め出すことも可能だが、賀田は法網を破っているわけではないので、市場から追放してしまうことはできない。賀田の利益のかげで、最大の犠牲者は東京市民といえるだろう。
 「下層労働者はもとより、中等以下の細民は実にたえられないほどの困難を感じつつあり。1日の労金は、高くても50〜60俵を出ない者が、多数の家族を擁して30銭に近い米の購入を強いられるに至っては、いかにして一家を支え妻子を養うことができるか細民が困窮するのみならずこの状態を継続すれば市場の休止の外ない」
 相場が立たなくなれば、真っ暗闇となって経済社会は大混乱に陥ってしまうから、立会を止めることはできない。とにかく、当時の米穀市場、米価は国民経済の燈明台であったから、軽々に市場閉鎖するわけにはいかない。今日では考えられないほど、米穀取引所の存在は大きかった。
 松村辰三郎(松辰)没落後、米穀市場で席巻する賀田金三郎の横顔をみておこう。
 賀田金三郎(1857-1922)は初め藤田伝三郎の藤田組に入り、のち大倉喜八郎の大倉組に転じ、台湾総支配人となる。明治32年、独立して賀田組を創設、後藤新平の庇護を受ける。台湾のインフラ整備に奔走、巨富を築く。相場界に入るのは明治40年ころのことだ。

【 鍋島 高明(なべしま たかはる)略歴 】

昭和11年高知県生まれ。34年早大政経卒、日本経済新聞社入社。
47年商品部次長、夕刊コラム「十字路」に執筆。
58年同編集委員、夕刊「鐘」、朝刊「中外時評」に6年間執筆。
日経電子版に『相場師列伝』連載中。
インターネット上の「鈴木商店記念館」監修。

日経産業消費研究所、日経総合販売を経て、
平成9年友人5人で(株)市場経済研究所を設立、現在代表取締役。

■著書
『日本相場師列伝』『日本相場師列伝U』『語り継がれる名相場師たち』(以上日経ビジネス人文庫)、「海坊主と恐れられた男 岩崎弥太郎」「大番頭金子直吉」(高知新聞社)
『ヘタな経済書より名作に学べ 金と相場』(河出書房新社)、
『鎧橋のほとりで』(米穀新聞社)、『北内正男と二家勝明−たどり着いて未だ山麓』